ふわふわ雑記

映画とかなんかテキトーなブログのようなもの?

他人と自分

ずっと同じようなことを考えています。少し前に他人と自分がどうにも同じような存在に感じられて仕方がないという考えを否定されました。

他人と自分は経験などが違うのだから同じ存在ではない。親と子の関係であれば同じような精神構造になってもおかしくは無い。また、同一人物を全く同じ条件で育てれば同じような精神構造になるけど、カオス理論からして少しでも違えば全く違うことになるし、そもそも同じ環境など作り出せるはずがないのでこの問いは設定からして間違ってる。ということでした。

 

カオス理論はわかります。でも経験が人を変えるのであれば、過去の僕と未来の僕は違う経験をしているわけですが、別人物であるはずがありません。でも実際でいうと別人みたいだね!というシチュエーションはありえます。

さあ困りました。

この、自分は別人ではない。というのと他人の別人みたいだね!のどちらが間違っているのでしょうか。

一応両方の立場で考えてみましたが、僕は両方あっているのではないかと思います。

自分は別人ではないと思うのは自分です。しかし、別人みたいというのは外からの視点です。

 

つまり、自分の姿や言動は変わったかもしれないが、それはあくまで他人がそう考えるかどうかであって、本質的は、その魂の構造のような骨子は変わってはいないのだろうということです。

例えばボランティアか何かに感動して、自分もやってみようとした場合、変わったね。と言われても、たしかに新たに始めたことや考えは変わったとしても何かに影響された精神というものが元に存在したわけで、それが変わったわけではない。

と考えられるのではないかと思いました。

 

つまり、今まで僕が考えていた他人と自分は同じというのは目に見える立ち振る舞いの話ではなくて、元からあるような精神の核みたいなものは変わらないんじゃないか

 

"きみはまず、自分が遺伝コードによって生成された肉の塊であることを認めなければならない。心臓や腸や腎臓がそうあるべき形に造られているというのに、心がそのコードから特権的に自由であることなどありえないのだよ"

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)』(伊藤 計劃 著) より

限りなくこれに近い。僕の意見ではそれは人間の個を規定する遺伝子ではなく、それより旧い遺伝子のゲノムに刻まれているように感じる。

 

遺伝子(とここでいうゲノム)と環境によってあたかも他人と自分は違う人間のように見えるけれど、他人はベン図の人間というカテゴリーより近い距離にいるんじゃないかと思う。